【Tale】RENAULT 5 GTL Francaise

 夜、妻から電話があった。
「ねぇ、明日って休みじゃないよね?」
「なんで?」
「いや、洋介の中学の三者面談なのよ。わたし行くつもりだったんだけど、どうしても外せない仕事が入っちゃって。もし、時間があったら行ってほしいな、と思って」
「ああ、明日は代休取ったから空いてるよ」
「ほんと? じゃ、お願いできる? あとで詳細メールするね」
妻は要件だけを手短に話すと、電話を切った。
妻ではなかった。正確には元妻の加奈子だ。3年前に別れてから、加奈子はよほどのことでない限り、電話やメールをしてこない。1年位前に急性肺炎で入院したことがあったが、そのときも連絡はなかった。事後報告で聞いて驚いたが、加奈子は「大丈夫よ」と平然を装った。今回は息子の洋介のことだからだろう。たとえ別れたとしても、息子にはお互い責任がある。
(この物語は半分フィクションです)

加奈子からのメールで三者面談の開始時間や持参するものを確認した。明日は抱えていた大きな案件が一区切りしたので、1週間くらい前から休もうと決めていたのだ。とはいえ、特別することもないので早起きしてドライブにでも出かけようかと、それくらいしか考えていなかった。行き先も決めてなかったからちょうどいい。ドライブした後に洋介を乗せて学校に向かおう。
洋介の通う中学校はとなりの県、しかもけっこうな山奥にあるので、走るには最適なロケーションだ。6月。少し早い梅雨入りで天気が心配だったが、心配してもどうかなることではないので早々にベッドにもぐりこんだ。

 

翌日。天気予報では曇りときどき雨だったが、空は晴れていた。「よしっ」と小さくガッツポーズをすると、まずクルマである場所に向かう。日常の足は会社の営業車だ。何も文句を言わずに黙々と働いてくれる国産車だが、いかんせん運転していておもしろくない。信頼性とのトレードオフと考え、いつもはこれを使っているが、ドライブを楽しみたいときはもう1台のクルマを引っ張り出す。それは自宅から5分くらいのところにあるレンタルガレージに置いてある。
レンタルガレージなんて聞くとさぞかし高級なスポーツカーとか、クラシックカーが収まっているように思われそうだが、実際はガレージもクルマもおしゃれとは程遠い。イメージとしては、ガレージというよりも、車庫だ。
貸車庫につくとまず南京錠を外し、かんぬきを抜く。古く大きな木の扉に手をかけて引っ張ると、ギギギーと音を立てて開いた。中に収まっているのは、ルノーのサンクGTLだ。スポーツカーでもクラシックカーでもない、ただのフランスの大衆車。年式は1984年。もう旧車と呼ばれてもいい車齢になってきた。
こいつとは永い付き合いになる。最初は東京にあった。当時、ルノーのインポーターだったキャピタル企業がお客に売ったが、そのお客は1、2年で手放し、愛知県の豊橋市にやってきた。豊橋では3年ごとに3人のオーナーが乗った。奇跡的と言うべきか、3人ともそれなりに裕福な家の奥さんで、メンテナンスなどもよくやってくれたそうだ。その後、中古車屋の工場長がオーナーになった。整備のプロである。当然、面倒もよく見てくれた(エアポンプ外したり、100km/hでキンコン鳴るのを止めたりもしてくれた)。当時、そこの中古車屋と付き合いのあった私は、なぜかこのクルマに惹かれ、ことあるごとに工場長にアプローチしたのだがなかなか手放してくれない。ただ私も引くわけにはいかない。結局、それから2、3年ほど経ってようやく自分のものになったのだが……。いま思うと、よくそこまで執着したな、と我ながら呆れる。
手に入れてからはよく乗った。毎月1回、東京往復もした。7、80,000kmは乗っただろうか。とにかく運転するのが楽しかった。ただ7年も乗ると、だんだん疲れを感じるようになったのも事実だ。手放そうかと思ったが楽しいクルマだし、何よりちゃんと手を掛けたクルマだ。よく知らないどっかの誰かさんに売って、ぞんざいに扱われるのはいやだった。そこで私は考えた。「三河55ナンバーを維持すること。壊さないで乗ること。手放すときは私に返すこと」という条件で、それでも乗りたいという人に託そうと。84年式のいい加減ボロいクルマだ。こんな条件ではさすがに無理だろうな、と思ったが、なんと「乗りたい」と言ってくれる人がいたのだ。
最初は豊橋の人が乗った。そしてアブソーバー、クラッチを交換した。その後、私の元に戻ってきて30万円かけてシートを張り替えた。次は京都のオーナーさんの元へ旅立った。そこで110,000kmを突破。再び戻ってきて今度は神奈川県の横須賀へ。そこでラジエター、イグナイターを交換し、160,000kmを越えた。三度返ってきて、いまは名古屋のオーナーさんが乗っている。私はときどき必要なときがあると、オーナーさんに連絡して少しの間、借りて乗らせてもらっている(いや、正確には私のものなのだから、借りるというのは正しくないな)。話では1週間前に動かしたとのこと。キーを捻ると、エンジンはあっけなく始動。薄暗い車庫から出ると、まぶしい朝日に一瞬、目の前が真っ白になった。

 

25年以上も前のクルマだが、現代の交通事情でも運転する分にはまったく問題はない。ノンサーボのブレーキは多少力がいるが、それも慣れてしまえばどうってことはない。
私は高速道路に乗り、隣県へ渡った。4速に入れ、走行車線を80~100km/hで巡航する。ハンドルは手でそっと支えているだけ。ボサーッと運転できるところは、サンクの美点でもある。
30分ほど走って、インターチェンジを降りる。窓を開けると、早朝の山の空気のにおいがする。テントの中で目覚めて最初に嗅ぐ、あのにおいだ。7時半。加奈子はそろそろ家を出た頃だろうか。そんなことを思いながら、山道を走る。不意になぜ私たちは別れたのだろうか、と思った。この離婚は正しかったのか。いやいや、いまそんなことを考えても仕方がない。考えるのを止めようとしたが、次から次へと湧いてくる。洋介は、本当はどう思っているのか、加奈子は? 私はまだ彼女のことを愛しているのだろうか……。
コーナーを曲がる。サンクの上屋はグラッと大きく傾き、それでも1輪も地面から離れることなく、舐めるようにラインをトレースしていく。最初はこの感じがいやだった。何とかロールを抑える方法はないかと考えたが、いつのまにか慣れてきて、いや、むしろこのグラッとくる感覚が好きになってしまった。常識的な速度域を越えなければ、これでもコントロール内である。見ている方は不安に思うだろうが。
連続するコーナーと戦っているうちに、思考は薄れ、反射神経が勝るようになる。さっきのモヤモヤはいつのまにか、記憶の底に沈殿していった。

 

加奈子の家には予定よりも10分ほど早く着いてしまった。予鈴を押すと、洋介が顔を出して「ちょっと待って」と言い、すぐに引っ込んだ。意味もなく、家を見上げる。借家らしいが充分新しく、隣家とも見劣りしない。ここには1年以上来ていなかった。
「早いよ」
そう言いながら洋介が再び姿を現したのは、3分ほど経った後だった。「悪いな」と私は悪びれる様子もなくつぶやき、運転席から助手席のロックを外した。「母さんは?」
「もう出た」
「そうか」
助手席で学生鞄の中に手を突っ込んで、探し物をしている洋介の横顔をジッと見る。当たり前だが、以前に会ったときより大人の顔をしていた。
「忘れ物、ないか」
「ん、大丈夫」
クラッチを放し、住宅街を進む。すぐに大通りに出る。
「進路のこと、聞かれるんだろ?」
「たぶん」
たぶん、と言った後、洋介から言葉が続かない。どうせ何も考えていないのだろう。しかし、私はここで追い詰めるようなことを言いたくなかった。自分が中学生のころ、父親からうるさく言われたからだ。
しばらく沈黙が続き、それを破ったのは洋介のほうだった。
「まだこのクルマ乗ってるの?」
「ははっ、見れば分かるだろう」
「なんで乗ってるのさ」
「なんで、って……」
私は想像しない質問に少したじろいだ。クルマの話はよくするが、洋介からそんなことを聞いてきたのは初めてだったからだ。
「そうだなぁ。古いけど、いろんな人に手を掛けてもらったクルマだし、ほら、キャトルってあるだろ。この前、泉屋の駐車場で見たやつ。あれはかわいいからさ。大事にする人が多いだろうけど、サンクはキャトルほど人気がないからな。オレが守らなければ、って使命感みたいなのがあるのさ」
「ふうん」
自分でも調子っぱずれな感じで話している自覚があった。半分くらい開いていた窓を全開にした。
「まぁ、あれだ。いろいろ理屈はあるけど、結局は好きだからだな。好きなことに理由はいらない。だからさ、洋介も好きなものは絶対に手に入れて、絶対に手放すなよ」
「じゃ、なんで離婚したんだよ」
父親の威厳を見せつけようとして、返り討ちの雷に撃たれた気分だった。
「ひ、人とクルマは違うだろ」
慌てて言い返したが、洋介は聞こえるか聞こえないかの声で「まじめに返すなよな」とつぶやいて下を向いた。
洋介の中学校はその角を右折したところにある。ウィンカーを出して進行方向を見ると同時に、洋介をチラリと見る。まだ下を向いたまま。それを見て、自然に微笑みが湧いてきた。私は「大人になったな」と心の中でつぶやいた。

PHOTO & TEXT/Morita Eiichi

1984y RENAULT 5 GTL Francaise
全長×全幅×全高/3615mm×1535mm×1525mm
ホイールベース/2430mm(左)、2400mm(右)
車両重量/810kg
エンジン/水冷直列4気筒OHV
排気量/1289cc
最大出力/42kW(57PS)/6000rpm
最大トルク/92Nm(9.4kgm)/3500rpm

 

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2 Responses to “【Tale】RENAULT 5 GTL Francaise”

  1. Y abe より:

    僕は景山民夫が大好きでした。片岡義男も好きだったな

    好きな女の話、好きなクルマの話、大切な物の話
    儚いものに対するセンチメンタル
    こういう話しにヨワいんだよね

    洋介君がフランセーズを引き継ぐ件が読みたいです

    • morita より:

      > Y abeさん
      コメントありがとうございます。
      景山民夫、片岡義雄、どちらも懐かしいお名前になってしまいましたね。
      僕もむかしは恋愛小説ばっかり書いていましたが、
      こういう内容で物語が書けたことに自分でも少し驚きがありました。
      単に歳を喰っただけなんですが……(苦笑)。

      洋介くんが免許を取るまで、お父さんは維持できるでしょうか。

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