Morita(以下、M):5月22日の「フレンチトーストピクニック(FTP)」から2週間後。きょう(6月5日)は「愛・地球博記念公園(モリコロパーク)」で「ミラフィオーリ」が開催されます。
Suzuki(以下、S):イベントが続くね。
M:コロナ禍前の日常が戻りつつあります。
S:きょうは新型カングーを借りて来ているんだけど、それは後で詳しく見るとして……。
M:はい。ではいつもの、行きますか。
Morita(以下、M):コロナ禍になってから、いろんなイベントが中止になってきましたが、だんだん動き始めてきましたね。
Suzuki(以下、S):そうだねぇ。3年ぶりのイベントでFTP(フレンチトーストピクニック)も例年よりも人が多い気がするね。
M:きょうは浜松でも「パンダリーノ」やってるみたいですし。
S:こういうイベントが開催できるようになって良かった。
2月にトゥインゴ3、3月にC2、4月にルーテシア3を紹介したが、今回はその3台の中古車を比べてみて、どうなのか? という話をしたいと思う。いちばん古いのはC2だが、走行距離は少なめで約5万km、いちばん新しいのはトゥインゴ3だが、走行距離は約8万km。ルーテシア3は新しさで言えば、2台の間だが、走行距離は9万5000km。三車三様を比較して見えてくるものは?
「普通」という言葉は不思議なニュアンスを持つ。普通の意味は「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること。また、そのさま」とある。ただ、2000年代に入ってから「普通においしい」とか「普通におもしろい」といった表現が用いられるようになった。これはいずれも「おいしい、おもしろいよりもほんの少し劣る」という意味合いを持っている気がする。感動するほどおいしく(おもしろく)はないが、合格である、といった感じだろうか。このような表現が生まれるようになったのは、この世にある製品やサービスの質が全般的に向上し、普通以下と思えるものが少なくなってきたせいだろう。製品やサービスを評価する際、普通、おいしい、だけではなく、普通とおいしいの中間という評価も必要になり、生まれてきたのではないだろうか。それに加え、僕は「普通」の意味として新たな定義を提案したい。
親戚の家に行ったときの話。そこの家は台所や洗面台などの水回りがとにかく汚い。汚れがこびりつき、カビが生え、まったくきれい好きではない僕でさえ、使うのをためらうくらいだ。「この家の人たちは、よくこんな状況で毎日使っていられるな」と感心するほどなのだが、先日、自分の家で妻から「このバスタオル、もう捨てたら?」と言われ、ハッとした。そのバスタオルをあらためて観察すると、端を折り返している糸が取れてボロボロになっており、色ももともとグレーだったの? と思えるほどグレーだ(もちろん最初は白)。身体を拭くものではなく、大きなウエスですと言ったほうがいい。それを僕は平気で使っていたのだ。何年も。当の本人はまったく気にしていないが、他人から見るとものすごく気になる。僕が使っていたバスタオルは、程度や種類の違いこそあれ、親戚の家のカビだらけの水回りと同じだ。最初は汚いと思っていても、それを継続していれば、それがその人にとっての普通になる。